問いのたて方
・本当に映画が伝えたかったテーマを理解していただろうか?
・日本のマスコミは、何を伝えたか?
・水銀汚染の実態を訴えたい、というテーマは伝わっているか?
・日本人の「食文化」について、日本人が自ら考えているか?
・「文化」は、未来永劫 絶対に不可侵なものであるのか?
・私たちが生きるため、他の動物の「いのち」をいただく際に、
最低限必要なこととは
・自分たちの問題として考えるために十分な情報が、
マスコミ等から手に入れられているのか?
・求められる「健全な議論」
・動物虐待は、他の場所でも起きているのでは?
・自分たちが生きるために必要な活動を、他の動物たちとの 共生という側面からも考えるべきではないのか
(この文章は、映画初公開時に発表された文章であることをご了ください)
米国アカデミー賞のドキュメンタリー部門の受賞作である『ザ・コーブ』が日本国内ではかなりの話題になりつつある。
この映画は和歌山県太地町のイルカの追い込み漁を題材としたものであるが
その残酷さを告発する作品であると多くの人々が語っている。
昨年インディーズの登竜門であるやはり米国のサンダンス・フィルム・フェスティバルの観客賞を受賞してから、
この映画は様々な地域で、様々な形で評価/批評され続けてきたのである。
しかしどこを見ても誰の話を聞いても、この映画の本当に伝えるべきメッセージに着目している者は
いないと感じているのは私だけであろうか。
米国で初めてこの映画が上映されてから我が国においてもいくつもの記事が全国紙に掲載されている。
どれをみても「伝統」、「食文化」等々の言葉が羅列されており実際に実施されている行為、
つまり漁の手段、方法などについての詳しい記述はない。
おそらくこのような記事を書いている記者自身が現場を見たことがないと推測される。
にもかかわらず大半の記事が「ジャパン・バッシング」が行われているという主張もしている。
事実にもとずくことなく。悪者扱いされることはだれしも気持ちの良いものではなく怒りを感じることでもある。
しかし事実がどのようなものであるかの確認は少なくともメディア関係者には 調べる義務があるのでなかろうか。
アカデミー賞の授賞式直後のワイドショー的メディアの騒ぎ方には尋常ではないものを感じるのみならず
愚かさを感じざるを得なかった。
好むと好まざると我が国のオピニオン・リーダーとなってしまっている各種「業界人」やコメンテーターの意見に
文化的文盲の深さと深刻さを感じたのは私だけではないはずである。
彼らのコメントが公共の電波に乗り、一般市民に届き大衆の意見に影響を与えていくのかと思うと
背筋が寒くなる思いである。
ではこの映画の「問題点」と指摘されている事柄を検証してみるといったい何が出てくるのであろう。
監督のシホョス氏が最も重視しているのは水銀汚染の実態である。これに関してはすでに国内でも
研究者らが調査を行っており数値などが明らかにされている。
イルカの肉を食くしている太地町内においても、学校給食におけるその肉の活用に反対する町会議員が
声をあげているという事実もある。むろんこのこともあまり日本国内のメディアは取り上げていない。
海洋資源の水銀汚染は深刻な地球規模の問題であり、マグロ好きのシホョス監督自身が
自分の毛髪の水銀地が高いと発言している。
『ザ・コーブ』はその一端をとらえて、特に水銀の含有量が高い食資源は食べなければならぬのでなければ
食べないほうがよいのでは、という意見を述べているのである。
しかし映画の中ではクジラ肉と偽ってイルカ肉が販売されている実態もあることが明らかにされている。
あるワイドショーのコメンテーターは「嘘をついて世界に販売している。。」というような言葉が
使われたとしているがそれ自体嘘である。
映画の中では地元のスーパーなどでクジラという表示のものを購入し調べているシーンが出てくるが、
世界各国の店に足を運んでいるわけでもなく、そのような発言は映画の中にはない。
さらには映画の中で、ホテルの一室で「怪しいDNA鑑定」をして、そのような勝手な結論を述べている
という発言もあるとワイドショーで述べられていたが、それを実施している専門家の背景調査をやっての発言であろうか。
少なくとも映画の中ではどのような人材が、どのような役割を果たしたかは明らかにされている。
つまりそれぞれの専門家は自分の領域に関しては責任ある発言を顔を出してしているわけであり、
それを疑問に思うのであれば、それなりの根拠がなければならないことは大人として、社会人として、
そして責任あるメディアとして当たり前のことではなかろうか。
もう一つ何度も日本のメディアで取り上げられている文化論であるが、これは捕鯨に関しても繰り返し言われていることである。
食文化を他の国の人間にとやかく言われるのは不愉快である、また文化を理解してほしいと関係者は
何年もの間公言してきたのであるが、それにははたして国民のバックアップがどれだけあるのであろうか。
少なくとも現代の日本国民の大半はクジラ肉、イルカ肉を日常的に食してはいない。
あすから食卓にそれが上らぬようになるといわれても実はピンとこない人間のほうが多いのである。
しかし今や食べていないものを食べていると、世界中に攻められ罵倒されているという実態を、
一般の市民は果たして本当に知っているのであろうか。
実はこれは、日本国民自身が自分たちの間で議論をしなければならぬことではなかろうか。
そして世界の考え方の流れを忠実に伝え、それに対して国民が自分で考えるという土壌を作っていくことが
ジャーナリズムの果たすべき役割ではなかろうか。
確かにシーシェパードのような過激な行為は容認できるものではない。
しかしそのような行為に走っているのは、ごく一部の過激なアニマル・ライツの集団であり、世界的に見ても
彼らの行動を称賛している人々はそれほど多いわけでもない。
しかし、日本国内の報道はことさらこのような集団の事件ばかり取り上げ、日本の捕鯨がいかにクレージーな
攻められ方をしているかを強調し、国民に冷静な判断を求めるような情報提供、事実の提供を
していないのではなかろうか。
むろん事実を知ろうとする意欲が国民にかけているのかもしれぬが、それを刺激するのもメディアの役割の一つであろう。
文化論に関してはもう一つ考えねばならぬことがある。
それは文化は果たして変えてはならぬものであるか否かという議論である。
人間が作り上げた文化や宗教、風習を変えてはならぬものとするのであれば、
新宿副都心の高層ビル群の地下には無数の人柱が埋まっているはずである。
ローマのコロセオでは今もなおグラディエーターの殺し合い、奴隷に野生獣をけしかける見世物等々が
行われているはずである。吉原は多くの文化的事柄を生み出した偉大な場所として持て早されているはずである…
そう、文化は人間の意識やモラルの変化とともに変わっていくものなのである。
歴史を振り返ってみれば、その証拠はふんだんにある。
象牙の国際商取引が問題になった時期に、邦楽にとって三味線のばちをはじめとして、
極めて重要な様々な道具の原材料がなくなることを危惧するべしという路線をとったある報道番組のレポーターが、
著名な邦楽家でもある三味線の師匠を訪ね、合成材料で作られたばちで試し弾きを依頼した。
象牙のばちも合わせて使用してもらいどちらがよいかをたずねた。
視聴者にとっては明らかに象牙がよい、なくなるのは遺憾であるという発言が期待されていることが
リポーターの言葉尻から伝わってきた。しかし三味線の達人であるこの御人はこう答えたのである。
「邦楽が常世の昔から象牙の音楽であったわけではありません。木製の道具を使っていた邦楽が、
大陸から象牙がもたらされたときに象牙の音色に変わっていったのです。象牙が手に入らなくなるのであれば、
今度はポリマーとやらの音色に変わっていくのかもしれませんな…」
そしてかれは朗らかに笑ったのである。
見事な切り返しであるが、これこそが人間の文化の本質である。真髄である。
昔からやっているのだから、という議論がはたしてどこまで通用するのであろう。
むろん良い習慣、風習を軽視しているわけではないが、文化であるから変えることはできぬ、
変えてはならぬという主張も考えなおさなければならぬのではなかろうか。
そしてこの文化をなぜ変えなければならないかを考えるにあたって浮上するのが、
『ザ・コーブ』に対して批判的なコメントをしている日本メディアの発言にみるもう一つの間違いである。
イルカを食べるなというのであれば牛や豚はどうであろうか。
西洋ではそれらを食べているにも関わらずイルカはだめだということがおかしい、というコメントは
何人ものコメンテーターから聞いた言葉である。
ここにも彼らの文化的文盲が露見しているのである。
今世界の動きの中で注目されている事柄の中には、農業動物の福祉がある。とりわけ欧州ではそのような動きが
続々と法制化されているのである。販売される動物由来食品に関して、その原材料となる動物自体の育成方法を
明記することが非関税障壁になるか否かという議論は、長くWTOをも悩ませてきた。
例をあげれば、採卵鶏(卵を産ませるために飼育されている鶏)の飼育方法の一つであり、長きにわたり
効率のよい安価な方法であるとされてきた「バタリー・ケージ・システム」では鶏がその一生を拘束衣といっても
決して過言ではないような狭い箱型の空間に閉じこめられることから、近年では非人道的であるとされつつあり
EUではそれが2012年には禁止されることとなっている。
当然同地域に卵を輸出している国々もそのあおりを受けるであろう。
このような流れの中では人道的なと殺方法に関する議論も、様々な場で繰り広げられているのである。
この世界的な動きの中で、たとえ食べてしまうものでも命がいたずらに苦しめられぬよう配慮することは、
人間として忘れてはならぬことであるという考え方が徐々に浸透してきている。
サッカーのワールドカップが日韓合同で開催されたときに、欧米で韓国の犬食い文化が批判された。
もちろん犬がかわいそうである、という声もあり、そればかりが大きく取り上げられていたが、犬を食べること自体に
反対しているわけではないという人々もたくさんいたのである。彼らが反対の声を上げたのは、食用の犬の扱いに関する
抗議をしたかったからである。
この時もメディアは全くその点を無視した報道をしていた。
いくら食べられてしまうとはいえ、ワイヤー・ケージにジャガイモのごとく詰め込まれ、時には撲殺されるといった扱いは、
決して生き物に対してやってよいことではない。これは幼い子供にでもわかることであろう。
犬がかわいそうなのではない、生き物が、痛みを感じることができる生き物が極めて「痛い思い」を
文字どおりしているのであり、それを何とかしなければならないということなのである。
このように簡単なことがなぜ報道する側に見えぬのか、それは本当に不思議なことであるとしか言いようがない。
そしてイルカに話を戻せば、牛も豚も鶏もそしてイルカも、食べるのであれば人道的な「と殺」をするべきであろう、
ということになるのである。
映画の画面いっぱいに広がると殺シーンはどう見ても人道的ではない。ゆえに牛と同じではないのである。
またクジラに話を広げれば自然の資源うんぬんよりも、はたしてクジラという巨大獣を一瞬のうちに痛みや苦しみ、
恐怖を感じさせずにと殺することは可能なのであろうか。
もし、それが不可能であるとすれば、そろそろ人間は自分の胸に手を当てて考えなければならぬという文化、
倫理的レベルに到達しているのではなかろうか。
イルカ肉を手に入れる手段が人道的かそうでないか、に関しては国民が考えるべきことであり当事者、
つまり利害関係がある者の仲間内のみで考えるべきことではない。
そのためには国民の有する情報基盤の整備が必要である。そしてこれこそがメディアの役割である。
やはり一度日本国内のメディアが太地町のイルカ漁の取材をするべきである。
もしその時に拒否された、というのであればそれを正直に報道してほしいものである。
太地町の当事者たちの言い分を載せるのであれば、それをジャーナリストたちは自分の目で検証してから
そうするべきではなかろうか。
最後にあるワイドショーの有名なコメンテーターが、この映画は日本人に対する欧米の人種差別の証であるという
発言をしている。あまりに情けないコメントではないか。
東京国際映画祭での上映の際に、あるオーストラリア人の女性がシホョス監督に質問をした。
オーストラリアは捕鯨や今回のイルカ漁などに非常に批判的な国家であるが、しかしその女性の発言は
決してジャパン・バッシング的なものではなかった。
「とてもためになる作品を提供していただき感謝します。私の国でもカンガルーが害獣扱いで極めてひどい
駆除のしかたが横行しています。今度はぜひオーストラリアにも映画を撮りに来てくださいませんか」
彼女はそういったのである。
このような冷静なコメントができる人間と比べ、人種差別発言のコメンテーターのレベルの低さが情けないと
思っているのは私だけであろうか。
スペインでは闘牛という文化は牛を惨殺する野蛮な娯楽でしかない、それゆえにもう廃止するべきであるという
大きな運動が国中にで展開されている。
もちろん擁護派も、たくさんいるわけであり意見のぶつかり合いがあることは否定できない。それ自体はべつに
わるいことでもなくむしろ健全なことであろう。日本においては健全な議論さえ持ち上がらぬのが現状である。
このような世界の流れの中で自分たちだけがいじめられている、日本文化を理解できぬ困った奴らが
海外にいる等々と吠えていても何の解決にもならぬどころか国民をさらなる混乱に陥れたり、自信を喪失させたり、
自らを卑下するような状況に押し込めてしまったりすることにもなりかねぬのである。
問題の太地町で追い込まれたイルカがすべて殺されるわけではない、イルカ・ショーなどに送り込まれるものもある、
という「言い訳」のようなコメントをしている日本の司会者がいたが、ここでも再び文化的文盲が露見してしまった。
映画は米国をはじめとして、多くの国々で設置されている海洋生物の展示施設(水族館)がいかに
海洋生物の福祉を侵害してきたか、という点も取り上げている。
映画の主役の一人であるオバリー氏は、かの有名なフリッパーのもとトレーナーである。
イルカの展示、その人気、そしてそれに続く搾取の火付け役でもある彼は、その業界のあまりの無軌道な現状に
背を向け、自分が築き上げた産業を今や自分の手で破壊しようとしているのである。
オバリー氏自身は、米国内においても数々の違法行為で検挙されながら抗議活動を展開させてきたいわば過激派であり、
決して全面的に支援しやすい人物ではない。
しかし彼のたどってきた道、彼の人間としての懺悔の日々、そのようなストーリーにはどのメディアも一切触れてはいない。
フリッパーを夢中でみた世代は今数々の責任ある社会的地位に身を置いているはずである。その彼らにオバリー氏の
ストーリーが理解できぬはずはない。
なぜその全容がしっかりと報道されないのであろう。今や動物園水族館業界では前述した食用動物を取り巻く状況と、
同じような動きが活発化している。
展示するのであれば個体の福祉が守られなければならぬ、という考え方が浸透してきているのである。
自然の勉強を子供たちに、というのであれば、
ストレスで毛が抜けている動物や自然な動きが病的な常同行動に
変わってしまっている動物を見せても仕方がないということは当然のことであろう。
今や欧米においては動物園も変化を求められている。
この事実も世界の流れの中の常識の一つである。
そしてこの動物園改革運動のシンボルともされている動物種が四種類ある。
象、大型霊長類、熊、そして海洋哺乳類である。
これらの動物は行動学的にも人工飼育が極めて困難であると学識経験者も述べている。
彼らの福祉を守り教育に役立つような「自然」な展示をすることは至難の業であるということなのである。
すでに欧米の著名な動物園の中には、ゾウの展示を一代限りと公言しているところもある。つまり今、展示している
個体が死んだ場合次の個体は入れないということなのである。
シャチがトレーナーを殺してしまった事故も、決してこのような福祉関連の問題と無関係ではない。イルカとの
遊泳をプールなどで行っている展示施設もあるが、このような娯楽の中で発生した事故の報告を義務付けている
米国においては、10年間で十数件の報告例がある。すべてイルカが人間にぶつかり打撲、骨折などが生じた事例である。
はたして、これらの事故が彼らのイライラからくるものであるか否かは意見の相違があろうかとも思うが、
何かがおかしいことは確かである。
また展示施設のイルカなどは、しばしば餌の中に胃腸薬など添加されてあたえられている。
ストレスで消化器官をやられてしまうからである。
つまり殺されぬイルカもいるのである、だから少しは救われるのでは…という議論は
全くと言っていいほど的外れなのである。今や動物園改革の先端を行く考え方は、
海洋哺乳類の展示そのものを疑問視しているのである。
このように様々な角度から検証してみると、「ザ・コーブ」という映画がどのような問題提起をしてくれているかが
見えてくる。そこには太地町という地域を攻撃しようという狭い意図は感じられないのである。
むしろ文化、風習に囚われている人間がいかに滑稽な存在に見えてくるものであるかを物語った映画なのではなかろうか。
また人間がいかに意地や執着で生きている生物であるかも浮き彫りになってくる。
確かに太地町がやり玉に挙げられているのではあるが、それはおそらく実態を隠そうという過激な動きが
題材としては取り上げやすさにつながったのではなかろうか。
闘牛でも、カンガルーの駆除でも同じ映画がとれたかもしれぬ。一部の産業動物の飼育施設などでも同じことが
できたであろう。むしろ鶏のバタリー・ケージの実態を撮れば、もっと過激な映像が出てきたかもしれない。
人間が自分が生きていく中でほかの生き物とどのようにつながるかは永遠の課題である。
しかし、我々ホモサピエンスは常に進化している生物であると私は信じたい。確かに今でもお互いに戦い無益な殺生を
繰り返すこともあるが、少しずつ文化的、倫理的進化を遂げていると思いたい。
その壮大な流れの中にこの映画は位置付けられるのではなかろうか。